外的証拠のテスト
文書の信憑性を確認するための3つめ、そして最後の測りとなるのは外的証拠のテストです。ここでは、「新約聖書以外の文献によって新約聖書の信憑性が確認できるか?」ということが問われます。
「総合的にみて、17以上の文献が50以上のイエスの生涯、教え、死、復活と初代教会についての詳細を記録している。 [22] この時代からの他の歴史事実が欠けていることを考えても、これは驚くべきことです。イエスについて記録している情報源は、同じくこの時代のシーザーによる征服より多くあります。またさらに驚くべきことは、新約聖書の詳細の確認となるものはキリスト後20年から150年の間に書かれたものであるといういうことです。これは「古代歴史学の基準からするとかなり時期の早いものです。」 [23]
新約聖書の信憑性は聖書以外の36000以上の文献(1世紀の教会の指導者による引用など)によって確証されます。これらは新約聖書の中の最後の記述から10年ほど後のものさえあります。[24] 新約聖書の写本が全て失われてしまったとしても、数行の例外を除いてはこれらの他の書簡や文書から複製することができるでしょう。 [25]
ボストン大学名誉教授のハワード・クラーク・キーはこのように結論づけています。「新約聖書以外の文献の検証の結果、私たちのイエスに関する知識は、イエスが歴史的に存在したこと、その並外れた力、使徒たちの献身ぶり、イエス後にもその運動が継続したこと、ローマ帝国において1世紀後半にまで影響力が浸透していたということを確証している。」 [26]
このように、外的証拠は他のテストによって得た証拠をさらに裏付けるものとなります。数人の過激な懐疑者による推測があるにもかかわらず、新約聖書におけるイエス・キリストの描写は過ちのないものだといえます。ジーザスセミナーのような反対者もいますが、専門家たちは宗教的な信条の違いに関わらず、今日読まれている新約聖書の内容がイエスの生涯の出来事と発言を忠実に叙述しているという意見で一致しています。
マクマスター神学校の解釈学教授クラーク・ピノックはこのようにうまくまとめています。「古代世界からの文献で原典としても歴史としてもこれほど優れた証言は存在しない。正直な人はこのような文献をないがしろにすることはできないだろう。」 [27]
イエスは本当に死から甦ったのか?
私たちの時代の最大の疑問は「本当のイエスとは誰なのか?」ということでしょう。イエスとはただ並外れた人物だったのでしょうか?それともパウロやヨハネや他の弟子たちが信じていたように人となった神だったのでしょうか?
イエスの目撃証人たちは実際にイエスが十字架刑の後に死から甦ったのだということをかたり、そのように行動しました。彼らが間違っていたのだとすれば、イエスを信じて従った者たちはみな嘘に基づいて生きたのだということになります。しかし、彼らが正しかったのだとすれば、このような奇跡はイエスが神と自分、そして私たちについて証言した全てが確証することになります。
しかし、私たちはイエス・キリストの復活をただ信仰によって信じるべきなのでしょうか?それとも、歴史的な証拠が存在するのでしょうか?数名の懐疑者たちは復活についての記述を間違っていると証明するために歴史的記録を検証し始めました。彼らは何を発見したのでしょうか?
私たちが死んだ後に起こることについてイエスは語っているのか?
イエスが本当に死から甦ったのだとすれば、イエスはその死の先に何が存在するのかということについても知っているはずでしょう。人生と将来の意味についてイエスは何と言っているでしょうか?神への道はいくつも存在するのでしょうか?それとも、イエスは自分を唯一の道だと言っているのでしょうか?「なぜイエス?」の記事で驚くべき解答を読んでみてください。
イエスは人生の意味を与えることができるのか?
「なぜイエス?」はイエスが今日の社会に関係があるのかという疑問に答えています。「自分は何者なのか?」「なぜ自分はここに存在するのか?」「自分はどこに向かっているのか?」というような人生の最大疑問に対してイエスは答えを与えられるのでしょうか?閑散とした大聖堂や十字架は、イエスが私たちを手に負えなくなってしまった世界に置き去りにしたのだ、イエスはこのような疑問には答えられないのだと思わせました。しかしイエスは、人生やこの地上での目的について言及しています。それらは私たちがイエスを愛のないものだとか不在だと決めつけてしまう前に吟味されるべきでしょう。この記事は、イエスがなぜ地上に来たのかというミステリーに注目しています。
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