愛は万国共通語。文化、習慣、人種にかかわらず愛を求めない人はいないでしょう。でも、私たちが求める本当の愛とは。また、本当の愛は永遠でしょうか。
【愛】というと【恋愛】をすぐ考えます。そんな愛が永遠にと希望することが多いですね。愛は恋愛に限らず、仁愛、慈愛など、広いまた深い意味があり、愛は「人を慕い思うこと」と定義できます。慕い思う心は必ず「あげる」というアクションで表現されます。ですから、最高の愛は、他の存在のために自らを犠牲にする(自分をあげる)ことではないでしょうか。
友のためにいのちを投げ出すこと、これより大きな愛はありません。
残念ながら、人の愛は利己的で、条件つきのところが往々にしてあります。
イエスは、創造主である最高神は私たちの天の父であり、また、「神は愛」だと、この神の真の【人格】について教えられました。訪れた場所で病 人を治し、傷ついた人、貧しい人たちに手を差し伸べられ、イエスは神の愛を自ら実践され、神は愛であることを示されました。神の愛は、高潔さ、思いやり、赦し、慈悲、恵み、誠実さ、訓練など 様々な形で、私たちに対してあらわされています。 神の愛は、相手の魅力や行動に応して変わってしまいやすい人の愛とは全く違います。
神の愛は永久不変、無条件、完全に自己犠牲的で、利己的ではありません。
イエスは、神の愛の本質について、「放蕩息子の話」を用いて説明されています(新約聖書のルカによる福音書の15章から)。
傲慢で、強情で反抗的な息子は、楽しくぜいたくな生活だけを望み、父親が健在のうちに遺産相続を要求しました。父親はそんなわがままな息子の願いを受け入れ、息子は他国に移り、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまいました。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困る貧困状態に陥りました。我に返ったとき彼は、謙虚な心で家に帰ることを決心しました。
まだ家までは遠かったのに、父親は息子を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけして迎え入れました。父親は、息子 のことを忘れることはなく、帰宅を待ちわびていました。そして、自分の親不孝を罰っされても当然と考えて帰ってきた息子に対する究極的な愛の過大さを示すごとく、お父さんは、最上の上着を着せ、帰ってきたことを家の者たちと祝い喜びました。
青年としてイエスを個人的に知っていた弟子のヨハネは、晩年、手紙の中でこのように書いています。「キリスト(イエス)は、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」
神さまは、あなたを完全な永遠の愛で愛しておられます。そんな愛の強さを歌った歌。
わたしを刻みつけてください
旧約聖書の雅歌8章から
あなたの心に、印章として
あなたの腕に、印章として。
愛は死のように強く
熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎、主の炎。
大水も愛を消すことはできない
洪水もそれを押し流すことはできない。
もし創造主であるこのイエスが父と呼ぶ最高神がわたしたちを創られたのなら、わたしたちは愛のために創られたとも言えるでしょう。本当の愛を求めるのは人間の霊的遺伝子に組み込まれていることになります。この世界の愛の源が神であるとするなら、わたしたちはどのように人生の中で神さまの愛を体験することができるのでしょうか。〔愛される神について続けて読む〕