おわかりのように、罪は神の神聖な個性とは完全に逆です。したがって、神自身の一人息子を私たちのために犠牲にしなければいけないほど、私たちは、私たちを創造し愛してくれている神に罪を犯してしまっているのです。ある意味で私たちの反抗とは、神の顔に唾を吐きかけるようなものです。善行も、宗教も、瞑想も、カルマも、私たちの罪が負った負債を支払うことはできないのです。神学者のR.C.スプロウルによると、イエス一人がその対価を支払うことができます。彼は以下のように記述しています。
モーセは法でとりなすことができ、ムハンマドは剣を振りかざすことができ、仏(ブッダ)は個人的な助言を与えることができ、孔子は格言を言うことができた。しかし、これらの者たちの中で世界の罪に対する償いを提供する資格のある者は一人もいなかった。キリストのみが限りない献身と奉仕に値する[10]
分不相応な贈り物
キリストの献身的な死のために神が与える無償の赦しを言い表す聖書の言葉は『恵み』です。『情け』が私たちが受けるべき報いから救ってくれるのに対して、『神の恵み』は私たちが受けるに値しないものを与えます。イエスの献身的な死の結果として、神の情けは私たちを受けるべき罰から救います。しかし、それをはるかに超えて、神の恵みは私たちが受けるに値しない相続財産を私たちに与えてくれます。私たちが自分たちでできなかったことを、キリストがどのようにして私たちのためにやってくれたのか、少しおさらいしてみましょう。
- 神は私たちを愛し、神との関係を持つために私たち人間をつくった[11]
- 私たちはその関係を受け入れるか拒否するか、選択の自由を与えられている[12]
- 私たちの罪と神への反逆と神の規律が、私たちと神の間を壁で隔ててしまった[13]
- 私たちは永遠の裁きを受けるに値するが、私たちの身代わりとなったキリストの死によって神が私たちの負債を完済し、神と共にする永遠の命を可能なものにした[14]
自分には救い主が必要だと認めたボノの、恵みに関する彼の見通しは以下のとおりです。
恵みは論理と理性を受けつけない。言ってみれば、愛があなたの行動の結果を妨害するということだが、ばかなことをいろいろやってきた私の場合、それは確かにとてもよい知らせである。もしカルマが最終的に私の裁判官になるつもりだったら、私は大変なことになるだろう。恵みが私の過ちを赦すことはないが、恵みを求めて待ち続けている。私はイエスが私の罪を十字架へ持っていってくれたことに期待を持ち続けている。というのは、自分の宗教性に頼るとまずいということくらいは、自分でもよくわかっているだ[15]
ボノは自分の欠点を認め、神の恵みを待ち続けています。イエスが言ってたことでボノが理解してるのは、自分や他の誰かができなかったことを、イエスが私たちのためにやってくれたということです。そして、それはとても良い知らせなのです。というのは、私たちの過去に関わらず、私たちそれぞれが神の赦しと恵みを受ける資格があるからです。
今私たちは、長年の神の計画が良い方向へと向かう様子が伺えます。しかし、まだ一つの要素が欠けています。イエスや新約聖書の著者が言うには、私たち一人一人が個々に、イエスからの無料の贈り物に対して返事をしなければなりません。イエスは私たちにそれを受け取ることを強要しません。