一つの遺産
もし、イエスが自分の利益の為に偽ったのではないとしたならば、遺産を残す為に偽りの主張をしたとする事は可能でしょうか?確かにイエスの生きた証とその言葉には彼が遺産を残すためであるとしても、嘘をついたと記録はありません。考えてみて下さい、肉が裂けるまで打たれ、十字架に釘付けにされる事を考えるなら、どんなスーパーヒーロー願望の強い人からでもその熱心さを取り去ってしまうでしょう。
ここにはもう一つの深く調べたい現実が見えてきます。もしイエスが神の子であるという主張を単純に止めるならば、彼は決して罪に定められる事は無かったでしょう。イエスが神であるという主張、そしてそれを撤回する事を拒んだ事が彼を十字架につけたのです。
もし、イエスの信頼性と歴史的な評価がイエスが嘘をつく事の動機であったというならば、その人は一体どのようにしてガリラヤ人の村出身の貧しい大工の息子が彼の名前が突如として世界中で有名になるような出来事を考える事ができたのかを説明する必要があるでしょう。イエスはそのメッセージが生き残って行く事をどうして知ったのでしょうか?イエスの弟子達は逃げ出して、ピーターはイエスを否定しました、ですからこれは宗教的遺産を作るための素晴らしい公式ではない事が判りますね。
歴史家達はイエスが嘘をついたと信じているのでしょうか?過去20世紀の学者達はイエスの言葉と人生の歩みに、彼のモラルや人格に,何か欠点の証拠が無いかと言う事を丹念に検索しました。しかし、誰もイエスの内にどんな不完全なものも発見する事はできませんでした。それどころか、猛烈な懐疑主義者であっても、イエスのモラル、そして倫理的清さに驚愕させられたのです。
歴史家のフィリップ スカッフ師によると、イエスがどのような事についても偽った、嘘をついたという証拠は教会史でも、世俗の歴史であっても見つける事ができない。スカッフ師はこう述べていますーどうして、論理的や常識的また経験によって、偽りやわがままや邪悪な人像が作られてしまったのか?歴史の中で最も清く高貴な人格として知られ、最初から最後まで、完全な真理とリアリティーの雰囲気をいつも保っているのに。
イエスが偽り者であったという選択をするには、イエスが教え、生き、そして死んだ事全てに対して逆行しなければなりません。ですから、ほとんどの学者達にとっては、なぜそのように考えるのかが理解できないのです。しかし、イエスの主張を否定するには、説明が必要でしょう。そして、イエスの言った事が真実でなく、しかし彼が嘘をついていないというならば、残る一つの選択は、イエスが気が狂っていたと言う事になります。