あなたは、心に深い平和、平安のある生活を送っていますか。
むろん、人生、悔やむこともあります。怒る事情も出てくれば、不安や心配の種もいろいろあるのが実情かもしれません。さらに、この世には、暴力、貧困、欲などの悪があり、私たちの平和を脅かします。でも、これらのことに打ち勝つだけの深い平和(平安)が心にあれば、本当の自由の中に生きることができます。
それではまず本当の平和とは。
辞書によると、平安は「おだやかな」ことを意味し、特に争いがないのが平和ですが、聖書にある平和にはもっと広い深い意味があります。
平和の基には「和」があります。すなわち、平和は、個人的人間関係の和、国家間の和、人間と自然界の和を意味します。さらに、自分のうちの和、自分自身との和も平和の意味に含められます。
いらいらする時、悔やむ時、不安な時、思いわずらう時など、すなわち心の平和がない時は、自分のうちに和がありません。自分自身との和を考えると、自分の周りを変えるだけでは本当の心の平和を保つことはできないことに気づきます。仮に人生の問題がすべて解決したとしても、心の平和は長続きしないでしょう。それは、自分に不満がある、自分を赦すことができない、自分の過去を忘れられないなど、自分を責めて、自分との和が往々に欠けているからです。自分のうちで何かが欠けていて完全でない、満たされていないわけです。
自分のうちに和がある時経験できる心の平和には根強く、自由をもたらせるものがあります。
そんな心の平和は周りの事情によって左右されません。小さな船に乗って、嵐に巻き込まれ沈没しそうになっているのにもかかわらず、大丈夫だと安心して寝ていることができます。
そんな心の平和は、いろいろな意味で自分を失う可能性のある深刻な危険の中でも揺るがないものです。心を刻むような親友の裏切り、家族からつまはじきにされたり、大勢の人から無実に批判されたり、理由もなく人の憎しみや怒りを受けたり、迫害されてたり、また死を目の前にしても自分を心強くしてくれる平和です。
そんな理想的な平和が自分のものにできれば素晴らしいですね。
訓練や悟りを通して平和を自分のものにすることも可能かもしれませんが、実は、本当の「和」の平和は、他の人と一緒にいる時に得ることができるものです。
あなたには小さなお子さんが家にいますか。例えば、その子が転んでけがをした時、泣いてかけつけるのが親のもと。親のところに来たからといって、けがが一瞬に治るわけではありません。痛みも変わらないでしょう。でも、お父さん(または、お母さん)の胸元に抱かれて子供は安心します。このように、親のように自分を守って、抱いて、深く愛してくれている人のもとにいることが心の「和」の平和を体験する秘訣です。
それでは、本当の平和を自分のものとできる「他の人」とは。
例の話にもあげたように、私たちが小さい時は、親がその「他の人」にあたります。子供にとって愛してくれている親の下にいることが本当の平和を意味します。
私たちが成長するにつれ、親にあたる存在は神さまではないでしょうか。イエス・キリストは、創造主の最高神を「お父さん」と呼び、神さまは人間の霊的な父、私たちを愛してくださっている天のお父さんだと説きました。
私たちは人間として、本当の平和は、私たちを創造された神との関係の和の平和から始まり、父なる神のもとにいることによって体験できる平和、また、その神の平和に満たされて可能になる人間関係の和、また、善良の神との関係が癒された人類がもたらす自然界との和へと平和の波の円が広がっていきます。
神のことばとされる聖書には、神さまの平和が約束されています。
「あなたがたに贈り物をあげましょう。あなたがたの思いと心を安らかにすること、それがわたしの贈り物です。わたしが与える平安は、この世のはかない平安とは比べものになりません。だから、どんな時にもおろおろしたり、恐れたりしてはいけません。」
「そうすれば、人間の理解をはるかに超えた、すばらしい神の平安を経験します。キリスト・イエスにあって、その平安はあなたがたの心と思いを静め、安らかにしてくれるのです。」
「キリストの十字架の血によって、天と地のすべてのものが神のもとに行く道を開いてくださいました。神の子キリストが十字架の上で死なれたことにより、すべてのものが、神との平和な関係を持つに至ったのです。」
「どうか、どんな場合にも、平和の主があなたがたに平安を与え、あなたがたと共にいてくださいますように。」
イエスが現した神は、平和の主。この方と共にいるには。〔続けて読む〕