あなたは自分の将来についてどう思っていますか。
どんな夢と希望がありますか。
「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」ということばがあります。
望みがかなうことはいのちの木といわれるほど、人間にとって希望は大切なものです。人は希望を持つからこそ、人生の苦難を乗り越えていくことができ、個人の育成や社会の発展があります。
希望は、将来良いことがあるという期待です。この期待が確信になると、希望は揺らぐことのない生きる原動力となります。
でも、私たちの希望には「もろい」ところがあります。
失業したり、病気になったり、事故にあったり、何か予期しない出来事で、または、自分のコントロール外にあることで、希望があっという間に消えてしまうからです。
わたしたちはみな、小さいころから、いろいろなことで自分の期待に外れてがっかりした経験をたくさん持っています。残念ながら、失望は人生の一部です。何に、また、だれに期待しても、必ずといっていいほど失望させられるのは、この世のものは完全でなく、すべて一時的なものだからです。
「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」
失望が続くと心が病みます。でも、失望したくないからといって希望を持たずにあきらめた人生を送るのは、人間として健全な生き方とはいえません。失望のない人生はありませんので、どのように失望に対応するかが大切になってきます。
自分の望みがかなわない時、あなたは、運命だとあきらめますか。他人を責めますか。それとも、自分を責めますか。
運命だとあきらめると前進しません。他人の責任にすると自分の成長がありません。自分をただ責めるのも建設的ではありません。自分が取るべき責任を認めて取ることは大切です。自分が責任を取ることによって、自分の態度、考え、行動を変えるなら、希望実現のチャンスを将来増やすことができます。
さらに、人間のコントロールできないことで自分の希望がかなわない時、私たちの潜在意識にある人生観、世界観が非常に大切になってきます。自分に起こったことは偶然と考えるか、運が良かったとか悪かったと思うか、神の御業だとか、バチが当たったと信じるか、出来事そのものではなく、その解釈の仕方によって、失望からより力強く立ち直ることができることもあれば、逆に、失望の中で、さらに深く落ち込んで行ってしまうこともあります。
蜜が口に甘くおいしいように、
知恵はあなたの魂の蜜と知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。
聖書にある格言です。知恵を見つけて、それに生きる人の将来は明るく、希望は断たれることがないというわけです。
聖書の世界観の中心に、全知全能の創造主、善良で聖なる最高神が君臨しています。この神さまは、愛の神、光の神、いのちの神として知られています。
聖書の「知恵」の定義は、この神の「恵」みを「知」ることです。さらに、「知る」ということは、ただ単にその知識があるとか、理論的に分かっているというのではなく、「蜜が口に甘くおいしいように」自らの体験をとおしての理解を意味します。
神さまの恵みを知る心が抱く希望は、決して断たれることがないというわけです。
神さまは、私たちを深く心から愛してくださっています。この方の恵みとは、私たちに対する無限の愛と、それゆえ、何も惜しまず、すべての良いもの、完全なものを豊かに与えてくださる、神の心の熱さ、豊かさとを示します。言い換えれば、神の愛と善良さを体験し味わうことが聖書の定義する「知恵」です。
神さまの愛と善良さを体験するには、この神さまを知る必要があります。
この神さまのことを歌っている詩があります。
「あなたはきよいお方です。
私たちの先祖の賛美が、御座を取り囲んでいました。
あなたに信頼していた彼らを、あなたは助け出してくださいました。
彼らの叫びを聞いて、救い出してくださいました。
助けを求める人々を、ただの一度も失望に終わらせなかったのです。」
神さまに希望する者は決して失望に終わることはありません、と神への信頼を歌っています。
失われない希望を聖書的世界観でまとめてみましょう。
聖なる最高神である創造主の神さまを認め、この方を知ることによって、神の愛と善良さを体験することができます。そんな体験を通して、神さまに信頼し、希望する時、そんな神に置く希望は決して断たれることがありません。
神さまを個人的に知るには、「イエスが語られた神」を続けて読んでみてください。