あなたはどこに行ってもいつも注目の的になっている人に会った事がありますか?何か、ミステリアスで表現しがたい個性があるので、彼を周りと違った感じがする人としている人。そうです、2000年前、イエスキリストはそのようでした。でも、それはただイエスの個性によって彼の話を聞いた人達を魅了したのでは無く、イエスが語った言葉とその人生を見て証する人達が、ナザレのイエスが他の全ての人達と何かが異なっていると言うのです。
イエスは彼自身の他に何かがあった訳ではありませんでした。決して本も書かず、軍隊も指揮せず、政党も組織せずに、土地を所有していたのでもありません。彼のしていた事は、彼の村から周囲160キロ位の所まで旅をしながら、彼の知恵、チャレンジをするような言葉や、びっくりするような行いで多くの人を引きつけていました。
ほとんどの偉人達が結果的に歴史的書物の中に消えて行ってしまいますが、イエスは現在でもまだ何千冊もの本が書かれ、圧倒的なメディアの論争の的なのです。そして、多くの論争はイエスが彼自身に対して語った過激な主張に対しての事なのですーそれは彼に従った者達と敵の両方を非常に驚かせるものでした。
まず第一に、イエス独自の主張が彼をローマの権威者達やユダヤの宗教家から彼を危険人物だと見られる原因としました。イエスが資格や政治的力の無いアウトサイダーだったのにも関わらず、イエスは3年間のうちにその後20世紀までに渡る変化を世界に及ぼしたのです。他にも道徳的、宗教的なリーダー達が強い影響を及ぼしていますが、ナザレのイエス、この巡回説教師とは比べ物にもなりません。
イエスキリストの何がこの「違い」だったのでしょうか?彼はただの偉大な人物なだけだったのでしょうか?それとも、なにかそれ以上の事があるのでしょうか?
これらの事を質問する事によって、イエスが本当にどんな人物であったかという事に私達は向き合います。
ある人達は、イエスはただの偉大なモラル教師だと信じ、ある人達はイエスはただ単純に世界最大の宗教のリーダーだと信じています。しかし、多くの人達はもっとそれ以上の事を信じているのです。それは、イエスを通して神が人となって私達を訪れたと言う事なのです。そして、かれらはその事を支える証拠を信じているのです。
いったい、本当のイエスとはどのような人物なのでしょうか?これから、私達は世界で最も論争の的となっている人物を、もっと近くによって見て行きますが、まずはここから始めましょう。
イエスはただの偉大なモラル教師だったのでしょうか?
他の宗教でも、イエスの事を偉大なモラル教師だとして認めています。ヒンズー教徒のリーダーで「イエスの教えに非常に影響を受けた[1]」マハトマガンジー師はイエスの事をこう言い表しています。「彼は貧しい人、虐げられた人、そして見放された人への愛によって暴力的な脅かしにも屈せず、彼の存在全てをもって悪に立ち向かった」また、ユダヤ人の学者ジョセフクラウスナー師はこう書いています。「この事は、全世界的に認められているが…. キリストは最も純粋で崇高なモラルを教えた……..そして道徳の教訓や、最も賢い者の行動原理を太古の影の中に投げ捨ててしまう」と。[2]
イエスの「山上の説教」は今までに人が語った中で人類の道徳に関しての最上級の教えだと言われています。実は、私達が今日知っているような「平等の権利」の多くの部分はイエスの教えから来ています。歴史家のウィルドラント師はイエスの事を「彼は制限する事なしに、平等の権利の為に生きそして葛藤した。もし近代であったならかれはサイベリアに送られたであろう」「あなた方の中で最も偉大な彼に、あなたの為のしもべとなってもらいなさいーこれは全ての正気な、政治の為の知恵の逆転である」[3]
ガンジーの様に、多くの人達はイエスが単純に偉大な気高いモラルの原則を教えた人だと信じて、イエスが主張したイエス自身についての事と倫理についての教えを分離しようと試みました。これは、アメリカの建国の父達の一人の取ったアプローチでもありました。
トーマスジェファーソン師は新約聖書を切り貼りして、イエスの「神性」を教えるのに使われた部分を取り去り、イエスの倫理や道徳性に関しての教えの部分は保っておいたそうです。ジェファーソン師は彼の切り貼りをした新約聖書を持ち歩き、イエスがおこなった奇跡の事は否定しながら、イエスを永遠の最上のモラル教師として崇めていました。[4]
ジェファーソン師の言葉の中で、「独立宣言」はイエスが教えた「全ての人々は性別、人種、社会的立場に関わり無く、大きな価値を持ち、神にとって平等に重要である事」が根源となっています。そして有名な公文書は「私達はこれらの真理を当然の事とみなす。全て人はその創造主によって与えられた奪う事のできない権利をもって平等であるとして創られた」
新約聖書を切り貼りし、彼自身の異なるバージョンを持った事によって、ジェファーソン師は、もしイエスが神であるという事が偽りの主張であるならば、彼がよいモラル教師だけである事はあり得ない事を課題として話す事は決してありませんでした。
しかし、イエスは本当に「神性」を主張したのでしょうか?
イエスが何を主張したのかを見てみる前に、私達はイエスがだた、単純に偉大な宗教のリーダーであったかと言う事を調べる事が必要になります。
偉大な教祖
意外な事に、イエスは決して教祖であると主張した事は無いのです。彼は、宗教の地位争いに参加したり、自分の野望を押し進めた訳でもありません。また、彼のした事のほとんどは既成の宗教の枠の外で行われていました。
イエスを他の教祖達と比較するなら、とてもハッキリした特徴が見えて来るのです。
ヒンズゥー文化で育ったラビ、ザカリア師は国々の宗教を学び、その中でイエスキリストとその他の主要な宗教の創設者達の何処が違うのかと言う事を観察しています。その観察の中で、「教え、どのようにして生きて行くのか」が浮かび上がってきました。ゾロアスターに向き合うのではない、しかしあなたはソロアスターに聞くだろう。仏陀はあなたを解放するのではない、しかし彼の崇高な真理があなたを教える。モハメットはあなたを新しく創り変えるのではない、あなたを追い求めるコラーンの素晴らしさだ。しかし、イエスの特徴は、イエスはただ教え、メッセージを語っただけでなく、イエス自身が彼の語ったメッセージと全く同一なのである。[5]
ザカリヤの真理のポイントは、福音書の中でイエスが何度もシンプルに「私の元に来なさい」「私について来なさい」「私に従いなさい」と教えている所によって強調されています。そして、イエスの核となる働きは神だけができる事、罪の赦しでした。
「世界の大きな宗教」の中で、スミスヒューストン師はこのように見ています。「イエスと仏陀だけが、彼らの同世代の人々を驚愕させ、「彼はいったい誰か?」そして「彼はいったい何であるのか?」という疑問を抱かせたのである」そしてこの2人の与えた回答は全く正反対でした。仏陀は明白に彼はだだの人であり、神ではないと言ったが、それはまるで後に人々が彼を礼拝したがる誘惑を予期したかのようである。
しかしイエスは「神である」事を主張した。[6]
そして、それによりイエスが本当に彼自身について、どのような事を主張したかと私達が考える事になるのです。イエスが本当に神であると言う事をイエスは主張したのでしょうか?どうなのでしょうか?
イエスが神であると主張したのか?
多くの学者達はイエスは人として、父を神として崇めたが、イエスは彼の多くの宣言や主張によって、他の全ての人類とは異なっているので、イエスが神である事を主張した事に確信をもっています。例えば、ジョンパイパー師は彼の著作の中でイエスの力は一意的に神に属している事を説明しています。
イエスの友人や、敵は彼の言葉や行動によって呆然とさせられました。彼は、普通の人のように道を歩いているのに、振り返っては「アブラハムが生まれる前から私は存在した」「あなたが私を見たならば、あなたは父を見たのです」そして、不敬罪であると責められた後、落ち着いた様子で、「人の子は地上において罪を赦す権威をもっています」と言うのです。死人に対してはただ単純に「出て来なさい」「起きなさい」と言えば、死人達はそれに従い、海の上から嵐に向かっては「静まりなさい」という。一塊のパンには「1000食分に増えなさい」と命じるなら、それはすぐに起こりました。[7]
しかし、これらによってイエスが本当に意味した事は何だったのでしょう?イエスがモーセやエリヤのようにただの預言者である事は可能でしょうか? 福音書を表面的に読むだけでもイエスが自身の事を預言者以上の者として主張した事を明らかです。決してイエスのように自分を神のポジションに置いたり、そのように主張した預言者はいませんでした。
ある人はイエスが決して「私が神である」とはっきり言っていない事でイエスが自身の神性を否定していると論議しています。しかし、イエスは自慢をする為の機会を探すような普通の人と違い、イエスは謙遜でした。例えば、彼は決して自分の事をはっきりと「私は預言者である」と言わず、しかし彼について来る人々はイエスがモーセやエリヤの様な預言者だと考えていたのです。また、「私は救世主である」と明白に言った訳も無いのですが、「あなたがそうですか?」と問われた時にはそれである事を認め、弟子達はイエスこそが偉大な救世主の預言書の成就であると全く疑いませんでした。ですから、私達は、イエスが「神である」と明確に言っていない事で、彼が預言者でなくまた救世主ではなかったと言う事ができたとしても、それ以上にはイエスが神である事を除外する事もできないのです。
イエスは彼の「神性」を自慢して歩いた事はありませんが、普通の人が言うなら、つじつまがあわないような事を主張しています。イエスの彼自身について語った言葉が、イエスがだたの偉人や預言者である事に相反するのです。一度だけではなく、なんどもイエスは自分を「神の子」と言ったのです。
U2のリードボーカルのボノ師はイエスが神の子である事がこじつけじゃないかと聞かれた時にこう言いました。「いいや、俺にとってはこじつけなんかじゃない、見てみなよ、キリストのストーリーに信じない世俗的な人達はいつもこう言っているだろ。彼は偉大な預言者だった、明らかに興味深い人間だ、他の預言者達、エリヤ、モハメット、仏陀、礼子のように多くの考えがあっただろう。だが、キリストはそうはさせておかないんだ。キリストはこう言うんだ「私は教師ではないから私を教師と呼んではならない、私は預言者であるなどとは言っていない。。私は神が肉をもって生まれて来たものだ。」そうすると人々は「だめです、それは困ります、ただの預言者であって下さい。一人の預言者なら私達はあなたを扱えるのです」[8]
もちろん、皆がボノ師のイエスの視野に同意できる訳ではないでしょうが、それでも福音書を読んだ者としては、イエスが単純に偉大な預言者であったと言う事がありえないという事を否定する事は難しいのです。彼の驚愕的な主張が彼を比類の無い者としています。
イエスの主張した事柄を調べる前に、イエスが話した事が「唯一の神、一神論」の文脈の中であることを知る事は重要です。誠実なユダヤ人ならば、神は唯一であると信じます。そして、イエスが唯一の神を信じており、彼自身の父として「唯一真の神よ」と祈るのです。[9]
しかし、同じ祈りの中で、イエスは彼の父といつも共に存在していたと言いました。そしてピリポがイエスに彼らに父を見せて下さいと願った時にイエスが「ピリポ、あなたは私を知らないのですか?これだけ長い間私はあなた達の間にいたのに?誰でも私を見た人は、父を見たのです」[10]ですから、ここでの疑問はイエスが宇宙を創造したヘブルの神であると言ったのか、それともイエス自身も神の創造物の一部であったのか?という事なのです。
アブラハムとモーセの神
イエスはいつも彼の言葉を聞く者達を困惑させるような言い方でイエス自身の事を話しました。「アブラハムが生まれる前に、私は存在した」[11]、マルタや彼女と一緒いた人達に「私は甦りであり、いのちである。私を信じる者は死んでも生きるのです」と語り、「私は世の光です」そして「私は道であり真理でありいのちなのです」[12] 様な大胆な発言をしたとパイパー氏は記しています。これらの言葉や、多くのイエスの言葉は神が自身を現した神聖な言葉:私は存在するもの(ego eimi)が先にあってあるものです。これらの事を語った時、イエスは何を意味していたのでしょうか?ー私は存在するーという言葉の重要性は何でしょうか、なぜイエスはこの言葉を使い続けたのでしょうか?[13]
ここで私達は、どのような背景があるのかに再度戻らなくてはなりません。ヘブル語の聖書記述ではモーセが燃える芝の前で神に名前を尋ねた時、”私はある(ジェホバ)”と答えたのです。神はモーセにジェホバが唯一の神であり、時間の外側で常に存在していると語ったのです。驚くべき事に、イエスはこの神の聖なる名前であるー私は存在するーを自分を表す言葉として使っていたのです。なぜ、そんな事をしたのでしょうか?
モーセの時から、ユダヤ教を実践してる者達の中に自分の事や他人であってもー私は存在するーと自称した人はありませんでした。ですから、イエスがー私は存在するーであると主張した事はユダヤのリーダー達を激怒させたのです。たとえば、ある時にはあるリーダー達はイエスを殺そうとした理由を「お前はただの人間なのに、神であると主張するからである」と言ったのです。[17]
イエスが神の名前を使った事が宗教家達を怒らせたのです。なぜでしょうか?旧約聖書学者達はイエスが言っていた事を完全に判っていました。ー彼は神であり、宇宙の創り主だと主張しているーという事でした。イエスが不敬罪で告発されたのはその理由である事で判ります。聖書のテキストで読みこんでいくならば、イエスが神であると主張した事がはっきりと認められるのは、単純にその言葉だけでなく、それを聞いた者達のリアクションからも知る事ができます。(イエスが神である事をY-Jesus .com/Evidebce読む事ができます)
ケンブリッジ大学教授のC.S ルイス師は、始めはイエスを神話だと考えていました。しかしこの神話を詳しく知っている文学の天才はイエスが本当に存在した人物でなければならなかったと結論付けたのです。それだけでなく、ルイスがイエスの証拠を調査した時にイエスが実在した事が本当だっただけでなく、彼のような人は他には決していなかったと確信しました。ルイス師はこう書いています「ここに、本当のショックがあるんだ、ユダヤ人の中から突然自分自身が神であるという人物が現れ、罪を赦す事を語り、彼は常に存在していたと言い、世の終わりの時に彼は裁きに来たと言う」[18]
ルイス師にはイエスの主張した事は普通の教師や宗教家達によって創作された物ならば単純に過激すぎるし、難解であった。
確かに神である
ある人達はイエスが神の一部であると言う事だけを主張していたと、議論をします。しかし、そのアイディアは私達はすべて神の一部分であり、私達のうちに神の種がある事というものですが、これはイエスの言葉と行動と照らし合わせるなら、単純に考えても可能ではありません。実際、イエスはいつも神は一人であるという旧約聖書の教えを強調しました。
イエスは彼自身がユダヤ人が理解し、ヘブル語の聖書が書き記した神であると教えたのであって、ニューエイジムーブメントがとらえる神では無いのです。イエスやその群衆達はスターウォーズの映画によって子供時代を過ごした訳ではなく、彼らが神の事を語る時には「宇宙の力」の事ではありませんでした。神のコンセプトについて、イエスが何を意味していたかを再確認する事はそのための基礎はありません。
ルイス師はこのように説明しています
ーでは、この事を明確にしよう。インド人達のような汎神論者達なら、誰でも、彼は神の一部分であったと、また神と一つになったと言う事はあるかもしれない。しかし、この人物はユダヤ人であり、そのような神々の事を言っているはずが無い。神はヘブル語では世界の外にある存在、世界を創造し、その創られた物から限りなく異なる存在である。そして君がその事を理解するなら、この人物が語った事が人類の口によって発せられた事で最も衝撃的である事がわかるだろうー[19]
イエスを偉大な教師として受け入れはしても、彼を神と呼ぶ事を望まない人達はいるでしょう。トーマスジェファーソン師はイエスのモラルと倫理の教えとして受け入れ、神性を否定する事が問題と思いませんでした。[20] しかし、私達が話して来たように(これからもっと探求していきますが)、イエスが彼自身の主張と違うならば、他の選択を調べる事が必要ですが、結局どれもがイエスを偉大なモラル教師にはできないのです。ルイス師は「私がしようとしている事は、イエスに対して人々がつねずね言う愚かな事、それを防ごうとしているんだー私はイエスを偉大なモラル教師として受け入れる準備ができていますが、彼が神と自称している事は受け入れませんーなんてね。それは言ってはならない事だよ」[21]
しかし、これを違う視点から見る事もできます。もし、イエスが「自分が誰であるか」に正直でなかったのなら、どうでしょう?イエスは偽り者であったのでしょうか? それとも気が狂っていたのでしょうか?
既に見て来たように、真理を求める旅で、猜疑的であったCSルイス師はイエスのアイデンティティーにおいて、これらの2つが同時にはあり得ないと知ったのです。イエスは、彼自身が言ったように、神が肉を持って存在した者か、彼の言った事が偽りであるかのどちらか片方であると。そしてもし、偽りであるなら、イエスが偉大なモラル教師と言う事はありえず、わざと嘘をついたか、神コンプレックスをもっていた狂人でしょう。最後の2つの事柄についてはこの章のなかでもっと考えてみましょう。
イエスに対して最も厳しい批判であっても彼を偽り者としたものは数多くありません。ですから「偽り者」のレッテルは彼の高いモラルと倫理の教えに合うようにはみえませんね。最も正しい人が自分が誰であるかと言う事を偽って生きたなどと考える人がいるでしょうか?しかし、ルイス師はイエスが彼が主張した人物でなかったのなら、彼がわざと全ての人を誤って導いたと言う事を考えなければならないとも議論しました。
他者に嘘をつく事
1532年にニッコリオ マチャベリ王子によって書かれた本は、時代が変わっても影響力のある政治的な働きを記した本として有名です。この著書のなかで、マチャベリ王子は力、成功、イメージ、能率性を忠実さ、信仰、正直さに勝って賞賛しています。彼によると政治的な目的を達成するなら嘘をつく事もかまわない事であるようです。
イエスは成功、名声、力を得るために、彼のすべての働きを偽りの上に建てる事はできるのでしょうか?もし、そのようであったなら、もし彼が偽ったならば、誰かがそれを見つけて彼に明らかにしたでしょう。実際に、イエスを敵としたユダヤ人はいつもイエスを詐欺師や嘘つきとして告発しようとしていましたし、イエスを罠にかけ、矛盾するように見えるように多くの質問をしていました。しかし、イエスはいつも驚くべき一貫性をもって応答し、真実でなかった事は一度もありません。
私達は「どのような事が一体彼の一生を偽り者として生きる事の動機でありえるのか」と言う事を考える必要がありますね。イエスは神は偽り者や偽善者を退けると教えていましたから、それらの事を彼の父を喜ばせる為にしていたのではありませんし、彼に従って来た者達の益の為だとも言えません。それは弟子達の一人を残して皆がイエスのリーダーシップを拒否する事を選ばす、殉教者となった事でわかるでしょう。
個人的な益の為
多くの人は個人的利益の為に嘘をついてきました。嘘をつく最大の動機は自分自身の利益を求めることによることでしょう。ですから、もしイエスが彼自身のアイデンティティーを偽ったとして、そこからどのような利益を期待する事ができるのでしょうか?権力が最もはっきりした答えになるでしょう。もし、人々が彼が神である事を信じたならイエスは莫大な権力を持つ事ができます。(ですから、シーザーなどの昔のリーダー達は自分は神から出ていると主張しました)
しかし、記録が語っている事は、イエスは彼自身が権力の王座に導くような人々の願いを回避し、かえってそのような権威を悪用したり、権威を追い求める者達を手厳しく批判しました。そしてイエスは権威を持たない者達にいつも愛と憐れみをもって手を差し伸べる事を実践していました。
ですから、権力を得る事がイエスの動機であったとするならば、「権力の人が裸にされ、手と足を木製の十字架に釘付けにされる」十字架をどのような犠牲をはらってでも避けようとするはずです。しかし、イエスは彼の弟子達に十字架につく事が彼の使命であり、計画であると語りました。ローマ人により十字架で釘付けにされて死ぬ事が彼に権力をもたらす事ができるでしょうか?
死ーそれはもちろんすべてを正確な視野に持って行くのです。多くの殉教者達が彼らが信じた事の故に命をおとしていますが、嘘だと判っている事の為に死のうとする者はほんのわずかでしょう。もちろん、十字架でイエスの個人的な利益の為の望みならば十字架で終わった事でしょう、しかし死の直前でも、イエスは彼が主張した、イエス神性を指し示すタイトルである「神の子」であると言う事を破棄しませんでした。[22]
一つの遺産
もし、イエスが自分の利益の為に偽ったのではないとしたならば、遺産を残す為に偽りの主張をしたとする事は可能でしょうか?確かにイエスの生きた証とその言葉には彼が遺産を残すためであるとしても、嘘をついたと記録はありません。考えてみて下さい、肉が裂けるまで打たれ、十字架に釘付けにされる事を考えるなら、どんなスーパーヒーロー願望の強い人からでもその熱心さを取り去ってしまうでしょう。
ここにはもう一つの深く調べたい現実が見えてきます。もしイエスが神の子であるという主張を単純に止めるならば、彼は決して罪に定められる事は無かったでしょう。イエスが神であるという主張、そしてそれを撤回する事を拒んだ事が彼を十字架につけたのです。
もし、イエスの信頼性と歴史的な評価がイエスが嘘をつく事の動機であったというならば、その人は一体どのようにしてガリラヤ人の村出身の貧しい大工の息子が彼の名前が突如として世界中で有名になるような出来事を考える事ができたのかを説明する必要があるでしょう。イエスはそのメッセージが生き残って行く事をどうして知ったのでしょうか?イエスの弟子達は逃げ出して、ピーターはイエスを否定しました、ですからこれは宗教的遺産を作るための素晴らしい公式ではない事が判りますね。
歴史家達はイエスが嘘をついたと信じているのでしょうか?過去20世紀の学者達はイエスの言葉と人生の歩みに、彼のモラルや人格に,何か欠点の証拠が無いかと言う事を丹念に検索しました。しかし、誰もイエスの内にどんな不完全なものも発見する事はできませんでした。それどころか、猛烈な懐疑主義者であっても、イエスのモラル、そして倫理的清さに驚愕させられたのです。
歴史家のフィリップ スカッフ師によると、イエスがどのような事についても偽った、嘘をついたという証拠は教会史でも、世俗の歴史であっても見つける事ができない。スカッフ師はこう述べていますーどうして、論理的や常識的また経験によって、偽りやわがままや邪悪な人像が作られてしまったのか?歴史の中で最も清く高貴な人格として知られ、最初から最後まで、完全な真理とリアリティーの雰囲気をいつも保っているのに。
イエスが偽り者であったという選択をするには、イエスが教え、生き、そして死んだ事全てに対して逆行しなければなりません。ですから、ほとんどの学者達にとっては、なぜそのように考えるのかが理解できないのです。しかし、イエスの主張を否定するには、説明が必要でしょう。そして、イエスの言った事が真実でなく、しかし彼が嘘をついていないというならば、残る一つの選択は、イエスが気が狂っていたと言う事になります。
彼自身に嘘をつく
1952年ノーベル章を人道支援によりを授与されたアルベルトシュバイツアー師は彼特有のイエスに対する見方をしていました。
それは、イエスが彼自身を神と主張した事の裏には狂気があったというのです。言い換えるなら、シュバイツアー師はイエスが自分を神主張した事は間違っているが、しかしイエスはわざと嘘をついたのではないと言うものです。彼の考えによると、イエスが欺かれて、結果的には自分が救世主だと信じたのだというのです。
ルイス師はこの選択を注意深く考えていました、そしてもしイエスの言った事が真実で無いならば、イエスは正気でないはずだと推測しました。ルイス師の理論では、ー自分が神であるなど主張する人は、偉大なモラル教師ではない。そんな人は狂人かー自分の事をポーチドエッグだと言い張るようなレベルの狂人かーでなければ地獄からのデビルに違いないー。[24]
イエスの人生、言葉を学んだ人々のほとんどが、イエスが非常に理性的で、心理的にもバランスが良くとれていた事を認めています。本人の人生は不品行と個人的な懐疑主義で一杯ではありながら、有名なフランス人哲学者ジェーンジェキエスロッセルー師はイエスのイエスの優れた人格と思考のあり方をこう述べていますープラトーが彼が想像した義人を説明した時..それは彼が正確にキリストの人格を述べていたのだ…もしソクラテスの命と死が哲学者達のものだったとすれば、イエスキリストの命と死は神に属する者達のものであった。[25]
ボノ師は自分の考えを語る事を恐れずに、イエスについての「狂人説」、イエスが正気でないというレッテルを貼ることは絶対にできない事だと述べています。彼は「だから、君に残されている可能性はキリストが自分自身について語った事が正しいか、または、完全に気が狂っているかだろう?カルトリーダーのチャールズマンゾンと同じレベルの事を言っていると思うが、これは、冗談で言っているんではなく、地球の半分以上の人類の歴史全体の流れが、狂人によって運命も、何もかもが変わるなんてアイディアは僕にとっては、あり得ないね。」と語っています.[26]
さて、イエスは嘘つきか、狂人か、それとも彼は神の子だったのか?イエスの主張は私達に選択する事を迫ってきます。C.S.ルイス師はこのように延べ私達がイエスが誰かと言う事を自分の頭で決める事をチャレンジしています。
あなたは自分で選択をしなければならない。この人が過去、そして現在も神の子であるか、それとも狂人か、もっと悪い者かを。あなたは彼を愚か者として黙らせる事も、つばをはきかけ彼を悪霊だと殺す事もできる、しかしあなたは彼の足元にひざまづいて「あなたは主であり神です」と呼ぶ事もできるのです。しかし、イエスを彼は偉大な人類の教師であったなどといって尊大な態度をとるのは止めて下さい。イエスはそんな事は受け入れないのです、そんなつもりも無かったのです.[27]
ルイス師はイエスが誰か?と言う事の選択を探し求めたのです。そして、神の子であると、イエスが主張したそのままであると結論づけたのです。イエスの人生と言葉とを注意深く調べた事が、天才であった彼に無神論を捨てさせ、献身的な信者であり、イエスに従う者にしたのです。
人類の歴史の中で最大の疑問は「本当のイエスキリストとは誰か?」であり、ボノ師、ルイス師や数えきれない多くの人が、それは神が私達の地球に人の姿をとって訪れた事だと結論を出しました。しかしそれがもし本当ならば、私達は彼が今日も生きている事を期待するべきでしょう。その通りの事をイエスに従っている者達は信じています。
イエスは本当に死から甦ったのか?
その目でイエスを見た者達は、イエスが十字架に付けられた後に肉体も一緒に甦ったと信じているように語ったり、行動したりしています。もし、それらが間違っているならば、これらの人々は彼らの人生のイエスによる信仰と信頼を偽りの上に建てた事になるでしょう。しかし、もし彼らが正しいのなら、これほどの奇跡は、イエスが語った全ての神について、彼自身のこと、そして私達の事についても証明するのです。しかし、イエスキリストの甦りを私達は信仰によってのみ受け取らなくてはならないのでしょうか?それともしっかりとした歴史的な証拠があるのでしょうか?ある懐疑的な人達は甦りが偽りであった事を証明しようとして、歴史的な記録を調査しました、そこで彼らは何を発見したのでしょうか?
[do action=”conversion-codes”/]