現代に生きる私たちにとって、どんな意味があるのでしょうか
多くの人が、イエス・キリスト私たちが「宗教的」になるよう求めていると思っているようです。人生の楽しみを忘れて実行不可能な道徳律を強いるために、イエスがこの地上に来られたと考えている、ほとんどの人が、イエスを過去に実在した偉大な指導者であると認めても、今日を生きる自分たちの人生には関係のない人だと考えています。
以前、懐疑論者であったジョッシュ・マクドウェルも同じでした。大学生のとき、彼は、イエスを人間が従うことができないような規律を強いた宗教指導者の一人に過ぎないと考えていました。自分の人生には無関係で、イエスやクリスチャンとも関わりたくないと思っていました。
そんなマクドウェルが、ある日、学生会の昼食で、元気一杯の女子学生の隣に座ることになりました。輝くような笑顔の女性に、マクドウェルは、なぜ、そんなに嬉しそうなのかと聞きました。すると、女子学生は次のように答えました。
「イエス・キリストよ!」
イエス・キリスト?マクドウェルはイライラして言い返しました。
「御願いだから、くだらないことを言わないでくれないか。宗教にも教会にも聖書にもうんざりしているんだ。くだらない宗教の話はしないでほしいよ!」
女子学生は、落ち着き払って答えました。「ミスター、宗教ではなく、イエス・キリストです」
女子学生の返答に、イエスを宗教的人物以上に考えたことがなかったマクドウェルは、唖然としました。宗教的偽善には関わりたくないと考えてきました。けれども、目の間にいる喜びに満ちた女性が、イエスのことを人生に意味をくれた人であるかのように話しているのです。
なぜ私たちがこの世に存在しているのかという深遠な問いにイエス・キリストは、答えを与えてくださるお方です。誰でも人生には何かについて、一度や二度、思いをめぐらしたことがあると思います。空高く舞う鷲や、漆黒の夜空に星を見ながら、命の不思議さについて考えたことはありませんか。夕日を眺めているときに、次のような人生最大の疑問が頭に浮かんできたことはないでしょうか。
- 私は誰だろう。
- なぜ存在しているのだろう。
- 死んだらどこに行くのだろう。
多くの証言が示すように、イエスが本当に死に打ち勝ったならば、イエスだけが私たちの人生の意味や「どこに行くのか」という疑問に答えることができるはずです。イエスを通して、私たちはアイデンティティや意味のある人生、将来に希望を見出すことができるでしょう。
人生の意味に対する問いに、多くの哲学者や宗教指導者たちが様々な回答をしています。けれども、死者の中から甦られたイエス・キリストだけが、命の意味について答えておられます。イエスの復活を一蹴していたマクドウェルのような元懐疑主義者も、復活の事実を否定できない証拠があると認めています。(http://www.y-jesus.com/body_count1.php 参照)
私たちはイエスを通してのみ、真に意味のある人生を生きることができます。イエスは、人生はただ稼ぎ、楽しみ、成功し、墓場で終わるものではないと教えられました。けれども、私たちの多くが、いまだに名声や成功に人生の意味を見出そうとしています。マドンナのようなスーパースターも同じです。
マドンナは自分の存在意義に対する答えを探し、歌姫になりました。彼女は次のように告白しています。「長い間、名声や富、皆に認められることで幸せになれると思ってきました。けれども、ある朝起きたときそうでないことに気がついたのです。……何かが、足りませんでした。そして、真実で永久に続く幸せの意味と、どうしたらそれを見つけることができるのか知りたいと思ったのです。」[1]
意味を見出すことをあきらめてしまった人もいます。シアトル出身のグランジ・バンド「ニルヴァーナ」のリード・ボーカル、カート・コバーンは、人生に絶望し、27歳で自殺しました。また、「ジャズ・エイジ」の漫画家、ラルフ・バートンは、人生を無意味と考え、次のような遺書を残しました。「少しの困難と、多くの友人と、大成功、妻から妻へ、新しい家から家、世界中を飛び回ったけれど、一日24時間を埋めることに疲れてしまった。[2]
フランスの偉大な哲学者、パスカルは、私たちが皆持っている、内なる空虚さは、神によってのみ満たされると信じていました。「人間の心にはイエス・キリストによってしか満たされない、神の形をした真空がある。」[3]パスカルが言っていることが正しければ、イエスは私たちにアイデンティティや人生の意味だけでなく、死んだ後の希望も与えてくれるのではないでしょうか。
あなたは、神なくして、人生に意味があると思われますか。無神論者のバートランド・ラッセルは、「神がいると思わない限り、人生の目的に対する疑問を持つことは意味がない」と書きましたが[4]、最終的に自分は、墓場で「腐る」とあきらめていました。著書「なぜ私はクリスチャンではないのか」の中で、ラッセルは、永遠の命への約束とイエスの言葉すべてを否定しています。
イエスの言葉と人生と死と私たちのアイデンティティの関係、未来への希望を理解するためには、イエスが神と私たち人間について何を語られたかを知ることが必要です。(http://y-jesus.org/japanese/wwrj/6_body_count/)
イエスが語られた神
関係を築かれる神
多くの人が、神を直接知り、ともに喜んでくださる方ではなく、エネルギーのような力と考えるようです。けれども、イエスが語られた神は、映画「スター・ウォーズ」の「フォース」のような非人間的で、電圧で測ることができるようなエネルギーではありません。また、イエスが語られた神は、空にいて私たちの人生をみじめにして喜んでいる冷酷なブギーマン(子どもをさらっていくという鬼)でもありません。
正反対に、私たちが求める以上に関係を求められる神についてイエスは語られました。神は考え、聞かれ、私たちが理解できる言葉で話しかけられます。イエスは、このような神について説明され、またご自身で神がどのようなお方であるかを実践されました。イエスは、神は私たちと親しく交わることを望んでおられるとも言われました。私たち一人ひとりを親しくご存知の神は、常に私たちのことを考えておられ、私たちが求める以前から私たちが必要なものをご存知です。
愛される神
また、イエスは、神は愛されることを話されました。そして、訪れた場所で病人を治し、傷ついた人、貧しい人たちに手を差し伸べられ、神の愛を実践されました。神の愛は、高潔さ、思いやり、赦し、慈悲、恵み、誠実さ、訓練など様々な形で、私たちに対してあらわされます。
私たちは、相手の魅力や行動に反応し、愛を示しますが、神の愛は、私たちが他人に抱く愛とは驚くほど違います。神の愛は、完全に自己犠牲的で無欲です。良い父親は子どもたちのために最善を望み、犠牲となり、必要を満たし、しつけます。イエスは神の愛を完璧な父の愛に例えられました。
イエスは、神の愛の核心について、放蕩息子の話を用いて説明されました。傲慢で、強情で反抗的な息子は、父親のアドバイスを無視し 働くことをやめ、楽しくぜいたくな生活だけを望みました。さらに、父が死んだ後に行われるはずの遺産相続前に、遺産を分けてくれるよう要求しました。
イエスの話に登場する父親は息子の願いを受け入れ、息子は、初めのうちは、何でも好きなことができると有頂天になりましたが、そのうち状況が暗転しました。身勝手にお金を浪費した放蕩息子は、豚の世話係として働くこと強いられるようになりました。
イエスは、家に戻ってきた息子を父親は喜んで迎え入れただけでなく、戻ってきた息子を見て、家から飛び出して駆け寄ったと話されました。父親は、息子のことを忘れるどころか、帰宅を待ちわびていました。そして、息子に対する究極的な愛を示すために、最上の上着を着せ、帰ってきたことを祝宴をもよおし、大きな喜びを他の人々と分かち合ったのです。
息子を深く愛していたのにも関わらず、父親が彼を追いかけなかったことは、大変興味深いことです。愛する息子が、自分で選んだ父への反抗の結果、痛み、苦しむときに父親は、ほっておきました。聖書も神の愛は私たちの最善のために、絶対に妥協をしないと語っています。私たちが間違った選択の結果、苦しむことで、天の父を必要としていることを気づかせるためです。
イエスはまた、神は決して、ご自身の性質について妥協はしないと教えられました。性質とは、私たちの最も深いところで自分自身を形作っている本質で、全ての考えと行動の起源ともいえます。では、神とは、どのようなお方なのでしょうか。
聖なる神
聖書の中で、神は「聖(きよ)い」と記述されている箇所は600箇所にも及びます。例えば、大祭司のような祈りで、イエスはご自分の父を「聖なる父」8として礼拝しています。「聖い」とは神の御性質があらゆる面で、道徳的に純粋で完全であることを示しています。神は汚れたこと、高潔な道徳に対して矛盾する考えを抱くことは絶対にありません。
聖なる神は、常に完全に正しく、公平なお方です イエスは、神の私たちに対する正義は私たちの心の態度に対して示されるものであって、私たちが自分や他人が受けるべきと考えてしまうような報いではないと教えられました
さらに、神の聖さは、神が悪の存在の中に存在できないことを示しています。ご自身の御性質の正反対である悪を神は憎まれます。神はご自分の聖い純粋な水が悪によって汚染されることを許しません。
神が聖く、悪を嫌悪されるならば、なぜ私たちの性質をご自分と同じように造られなかったのでしょうか。なぜ、子どもに対する性的虐待や殺人、強姦、性倒錯が存在するのでしょうか。なぜ道徳的葛藤があるのでしょうか。こうした疑問について続けて読むことで、人生の意味を探る旅へと皆さんを導きたいと思います。まず、イエスは、私たちについて何を語られているのでしょうか。
イエスは私たちについて何と語られているか。
私たちは神と関係を持つために造られた
新約聖書を通読すると、イエスが私たちは神にとって、計り知れないほど大切な存在であると何度も話されたことに気がつきます。イエスは、私たちは神の子どもとなるよう造られたと語られました。[5]アイルランドのロックグループU2のボーカル、ボノはインタビューで次のように話しています。
「世界を創造された神が人間と真実の関係を築き、交わりたいと考えておられるということは、驚くべきことです」
言い方を変えれば、全宇宙を創造される以前に、神は私たちを家族の一員とすることを予定されていたということです。それだけでなく、私たちに驚くほどの財産を用意された神は、イエスの話に登場する父親のように、私たちが想像できないような祝福と最高の特権を惜しみなく、与えてくださいます。 神にとって、私たちは特別な存在なのです。
私たちは選ぶ自由を与えられました
映画「ステップフォードの妻たち」に登場する男性たちは、自由で開放的な妻たちは、自分にとって脅威になると考え、妻たちを従順で素直なロボットと取り替えてしまいます。弱く、嘘つきで貪欲な男性たちは妻を愛してはいるのですが、服従を求めて玩具と取り替えてしまいます。
神も私たちをロボットのように(iPeopleとでも呼びましょうか)神を愛し、服従し、スクリーンセーバーのように自分を礼拝するようにプログラミングされたロボット人間に造ることもおできになりました。けれども、強いられた愛はむなしいものです。神は、私たちの自由意志により愛されることを望まれました。真実な関係は、強いられず、ありのままの自分を愛してくれる人を求めるものです。「通信販売」で見つけられるような安易な相手ではなく、心からの友を求めるのです。
セーレン・キェルケゴールは、神のジレンマについて、物語を使って説明しています。
身分の低い娘を愛するようになった王を想像してみてください。王は他のどんな王よりにも勝る方で、国中の政治家たちは王の権力を恐れていました。けれども、この偉大な王が心を赦したのは身分の低い娘だったのです。どうやったら王は娘に求愛することができるでしょうか。ある意味奇妙な形で、王は王であるがゆえに難しい状況に置かれています。娘を宮殿に連れてきて、頭を宝石で飾ったら拒みはしないでしょう。王に逆らおうとする人などいないのですから。けれども、娘は王を愛するでしょうか。愛していると言ったとしても、心の底から愛してくれるのでしょうか。
何が厄介な問題か分りましたか。詩的な言い方をやめれば、何でも知っているボーイフレンドとどうやって別れることができるのか、ということです。(「互いに上手くいかないと私は思うけど、あなたは、すべてお見通しね」というような)自由に愛し愛されるために、神は人間を特別に自由意志を持つように造られたのです。イエスは「悔い改めなさい」「私を信じなさい」「私についてきなさい」「私のもとに来なさい」「私の戒めを守りなさい」「互いに愛し合いなさい」「私のうちにいなさい」[6]
といった多くの戒めを通して私たちに選ぶ自由が与えられていることを明らかにされました。イエスが私たちにくださった戒めは、私たちが、神の方法に従うか、背を向けるか、自由な選択を持った存在として造られたことの証拠です。
神の道徳基準に対する反抗
C.S.ルイスは、人間は神を知りたいと願うように造られていながら、生まれながらにして、神に反抗する生き物であると書いています。[7]ルイスは、自分の心の動機を吟味し、良いことと悪いことを本能的に見分けることができることを発見しました。
ルイスは、善悪を見極める力はどこから来るのか考えました。私たちは皆、ヒトラーによる600万人のユダヤ人虐殺や、他人のために自分を犠牲にした英雄について読むとき、何が正しくて、何が悪いことなのか分ります。嘘をつき、だますことは悪いことであると誰もが本能的に知っています。人間が心のうちに道徳的基準を持っていることに気づいたとき、無神論者であったルイスは、道徳的な価値という「規律を与える」存在を信じたのです。
イエスの教えと聖書の他の箇所を読むと、神が私たちに道徳的規律を与え、従うように言われていることが分ります。人間は神との関係に背を向けただけでなく、定められた規律も守りませんでした。ほとんどの人が「嘘をつくな、盗むな、殺すな、姦淫をするな」といった十戒を少なくとも一部なら聞いたことがあると思います。イエスはこれらの戒めを、神を心を尽くし愛し、隣人を自分のように愛せよという言葉に集約されました。ですから、罪とは規範に対する違反であり、間違っているだけでなく、正しいことを実践ことをいうのです。
神は全世界を治めるときに、規範を作りました。神の法律は破ってはならない、変更不可能な規則です。アインシュタインはE=MC2の法則を説くことで、核エネルギーの謎を明かしました。完璧な状況の中で適切な要素を使用すれば、大変な力が爆発します。聖書は神の道徳規範は、神ご自身の御性質を軸にしているために、守られるべきであることを教えています。
人類最初の男女から、私たち人間は自分たちに益となる神の法律に従いませんでした。正しいことを行うことができない私たちの本質は、最初の人間であるアダムから引き継がれてきたものです。聖書は不従順を罪と呼んでいます。罪とは弓手が「的をはずす」という意味です。私たちは神がご計画された神との関係を壊してしまいました。私たちは、計画を無視して、弓手が的をはずすように生きてしまいます。
罪は、すべての関係を断つものです。人間は環境を無視し(孤立)、自分たち自身から断絶し(罪責感と恥)、他の人から断絶し(戦争、殺人)、人間は神と断絶します(霊的死)。神と人類を結ぶ最初の輪が壊れることで、鎖の輪のように付随する他のすべての絆が解かれてしまったのです。
こうして、私たちは壊れてしまいました。ラップミュージシャンのケイン・ウエストは歌っています。「間違ったことをしてしまうのを治すことなどできない・・・神様と話したいけれど、あまりに長い間話していないからできない」ウエストの歌詞は罪が人生にもたらす孤独を歌っています。聖書によれば、こうした孤立状態はラップ音楽が歌う以上に致命的な結果を私たちにもたらします。
神の愛から私たちを引き離す罪
私たちの反抗(罪)は神と私たちの間に壁を作りました。聖書で「分離(separation)」とは霊的死を意味します。霊的死は神の光と命から完全に離れてしまった状態をいいます。イエスは、神から離れてしまうことについて、ラザロと金持ちの男の話の中で、正しいラザロと、よこしまな金持ちの男が死んだのちの「大きな差」を例に話されました。
私たちは神が私たちに望まれた本当の人生を歩むことができないため、お金、成功、人気など他の方法に人生の意味を見出そうとします。けれども、これらのものは神から離れてしまったむなしさを埋めることはできません。
「ちょっと待ってください」とあなたはおっしゃるかもしれません。「神は私たちを創造される前に、人間がこうなることはご存知だったのではありませんか。ご自分の計画が失敗することをご存知なかったのですか」
もちろん、全知の神は私たちが神に背くことと、罪をご存知でした。そのためにこそ、神のご計画は驚くべき計画であると言えるのです。私たちをあきらめず、受けるに値しない愛を示されることが神のご計画でした。
このことはなぜ神が人間の姿となって地上に来られたか、その理由へと私たちを導くものです。さらに驚くべくことに、それはまたなぜ神が死ななければならなかったか、を説明するものです。
イエスは自分についてどう語っているか
神の完璧な解決策
イエスが公の場で教えていた3年間の間、彼は私たちに人生の送り方を教え、多くの奇跡を行い、死人をよみがえらせもしました。しかし彼は、自分の本来の使命は、私たちをおのおのの罪から救うためだとはっきり言いました。
イエスは自分が神が約束したメシヤ(救世主)であり、私たちの悪行を彼自身によって取り除くと宣言しました。預言者イザヤはそれより700年も前にメシヤについて書き記しており、それがメシヤの身元に関するいくつかの手がかりとなっています。しかし、理解するのが一番困難な手がかりは、メシヤが人間であると同時に神であるということです。イザヤはメシヤについてこう書いています。
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちのためにあたえられた。その名は『大能の神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。』
著者レイ・ステッドマンは、神の約束したメシヤについてこう書いています。「旧約聖書は始まりから【誰かが来るぞ!】と思わせる、近づいてくる足音のような希望と期待感がある。預言者たちが次から次へと【誰かが来るぞ!】と期待の持てそうなヒントを示すので、その希望が預言の記録を通して高まっていく」
[9]
古代の預言者たちは、メシヤが完璧な贖罪の献げ物となり、神の完全正義を満足させるものとなると予言しています。預言者を通して語られた神の言葉によると、この約束されたメシヤは、私たちのために死ぬのに、条件を満たす人間であるいうことです。
新約聖書の著者によると、私たちの罪をあがなうためのいけにえとしてイエスが条件を満たした唯一の理由は、彼が神として道徳にかなった完璧な人生を歩み、罪の審判の対象にならなかったことです。
イエスの死がどうやって私たちの罪の対価を支払ったのかは、理解しがたいことです。おそらく、裁判の例え話を例にすることで神の完全なる愛と正義のジレンマ(板挟み)をどうやってイエスが解決したか、明確にできるかもしれません。
(あなたに深刻な問題があったと仮定して)殺人の罪で法廷に入場するところを想像してみてください。法廷に近づくにつれて、裁判官があなたの父親だということに気付きます。父があなたを愛しているのを知っているあなたは「お父さん、私を解放してください!」とすぐさま嘆願{たんがん}します。
それに対して父親はこう答えます。「息子よ、お前を愛しているが、私は裁判官だ。ただ釈放するなんてわけにはいかないんだよ」
父親の心はかき乱されます。最終的に父(裁判官)は小槌を叩いて、あなたの有罪判決をくだします。正義は、少なくとも裁判官によっては、妥協されることはできません。しかし、父はあなたを愛しているので、法廷から降り、法服を脱いで、あなたの罪に対する刑罰をあなたに代わって受けることを申し出ます。そして実際に、父があなたの代わりに電気椅子で処刑されます。
これが新約聖書に描かれた光景です。神がイエスキリストという人物の中で人類の歴史に足を踏み入れ、私たちの代わりに、私たちのために、電気椅子(つまり、十字架)へと行ったのです。イエスは私たちの罪をかぶるため身代わりになった第三者ではなく、それどころか彼は神自身なのです。より単刀直入に言えば、神には2つの選択肢がありました。【私たちの罪を裁く】か、【神自身が厳罰を受ける】か。キリストにおいて、神は後者を選んだのです。
ボノはただ単に新約聖書の著者たちが私たちに教えたことを述べているだけです。
「キリストの死における要点は、キリストが世の罪を引き受けたので、我々がやったことは自分達に返ってこなかったし、我々の罪深い本質は明らかな死の報いを受けなかった。要点はそれだけ。それが我々を謙虚にさせるはずだ。天国の門を通れるのは自分たちのやった良い行い(善行)のためではない[9]
イエスだけが我々を神へと導くことができる者であるということをイエスは明確にし、主張されました。「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない
しかし多くの人たちは、イエスが神へ近づく唯一の方法であるという彼の主張は狭すぎると異議を唱え、神へと近づく方法はいくつもあると言います。宗教はどれもみんな同じだと信じている人たちは、私たちに罪という問題があることを否定します。彼らは、キリストの言葉を真剣に受け止めることを拒否します。彼らは、自分たちがやってきたことが何であろうと、神の愛が私たち全てを受け入れてくれるだろうと言います。
多分ヒトラーやオサマ・ビンラディンが裁きを受けるのは当然の報いだと彼らは判断するのに、彼ら自身や【まともな生活】を送ってきた人には関係ないと思っています。それは神が相対評価で成績を評価し、落第点でなければ誰もが入れると言ってるようなものです。しかし、これは一つのジレンマを示しているのです。
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おわかりのように、罪は神の神聖な個性とは完全に逆です。したがって、神自身の一人息子を私たちのために犠牲にしなければいけないほど、私たちは、私たちを創造し愛してくれている神に罪を犯してしまっているのです。ある意味で私たちの反抗とは、神の顔に唾を吐きかけるようなものです。善行も、宗教も、瞑想も、カルマも、私たちの罪が負った負債を支払うことはできないのです。神学者のR.C.スプロウルによると、イエス一人がその対価を支払うことができます。彼は以下のように記述しています。
モーセは法でとりなすことができ、ムハンマドは剣を振りかざすことができ、仏(ブッダ)は個人的な助言を与えることができ、孔子は格言を言うことができた。しかし、これらの者たちの中で世界の罪に対する償いを提供する資格のある者は一人もいなかった。キリストのみが限りない献身と奉仕に値する[10]
分不相応な贈り物
キリストの献身的な死のために神が与える無償の赦しを言い表す聖書の言葉は『恵み』です。『情け』が私たちが受けるべき報いから救ってくれるのに対して、『神の恵み』は私たちが受けるに値しないものを与えます。イエスの献身的な死の結果として、神の情けは私たちを受けるべき罰から救います。しかし、それをはるかに超えて、神の恵みは私たちが受けるに値しない相続財産を私たちに与えてくれます。私たちが自分たちでできなかったことを、キリストがどのようにして私たちのためにやってくれたのか、少しおさらいしてみましょう。
- 神は私たちを愛し、神との関係を持つために私たち人間をつくった[11]
- 私たちはその関係を受け入れるか拒否するか、選択の自由を与えられている[12]
- 私たちの罪と神への反逆と神の規律が、私たちと神の間を壁で隔ててしまった[13]
- 私たちは永遠の裁きを受けるに値するが、私たちの身代わりとなったキリストの死によって神が私たちの負債を完済し、神と共にする永遠の命を可能なものにした[14]
自分には救い主が必要だと認めたボノの、恵みに関する彼の見通しは以下のとおりです。
恵みは論理と理性を受けつけない。言ってみれば、愛があなたの行動の結果を妨害するということだが、ばかなことをいろいろやってきた私の場合、それは確かにとてもよい知らせである。もしカルマが最終的に私の裁判官になるつもりだったら、私は大変なことになるだろう。恵みが私の過ちを赦すことはないが、恵みを求めて待ち続けている。私はイエスが私の罪を十字架へ持っていってくれたことに期待を持ち続けている。というのは、自分の宗教性に頼るとまずいということくらいは、自分でもよくわかっているだ[15]
ボノは自分の欠点を認め、神の恵みを待ち続けています。イエスが言ってたことでボノが理解してるのは、自分や他の誰かができなかったことを、イエスが私たちのためにやってくれたということです。そして、それはとても良い知らせなのです。というのは、私たちの過去に関わらず、私たちそれぞれが神の赦しと恵みを受ける資格があるからです。
今私たちは、長年の神の計画が良い方向へと向かう様子が伺えます。しかし、まだ一つの要素が欠けています。イエスや新約聖書の著者が言うには、私たち一人一人が個々に、イエスからの無料の贈り物に対して返事をしなければなりません。イエスは私たちにそれを受け取ることを強要しません。
結末を選ぶのはあなたです
私たちは常に選択をしています。何を着ようか、何を食べようか、どんな職業に就職しようか、誰と結婚しようか、など。神との関係についても同じです。著者ラヴィ・ザカリアスは次のように書いています。
「イエスの教訓は、全ての個人が神を知るようになるということを、どういう生まれかによってではなく、個々の人生を神に支配してもらおうという本人の意志ある選択によるものだと明かしています[16]
私たちの選択はよく他人に影響されます。しかし時には、私たちが受けるアドバイスが間違ってることもあります。2001年9月11日に、600人もの罪のない人たちが間違ったアドバイスに信用をおいてしまい、罪もなく最悪な結果に苦しむことになりました。実際の話はこうでした。
世界貿易センターのサウスタワーにいたある人が、飛行機がノースタワーに墜落したというのを先ほど耳にした。その爆発で呆然とした彼は、どうしたらいいか指示を仰ぐのに警察に連絡をした。「爆発があったのは知ってますが、自分たちはここから避難したほうがいいでしょうか?」と緊急に電話で言った。
電話の相手は、避難しないようアドバイスをした。「私なら追って通知があるまで待ちます」
「わかりました」と電話をかけた人は返答。「避難はしない」そして、電話を切った。
午前9時を過ぎてすぐに、今度は別の飛行機がサウスタワーの80階に墜落。サウスタワーの上階にいた600人の大半が死亡した。タワーから避難できなかったことが、その日の大きな悲劇の一つだった[17]
相手を助けるつもりのアドバイスだったとしても、その間違った情報に頼ったためにその600人が亡くなったのです。600人の犠牲者が正しい情報を与えられていたなら、その悲劇は起こらなかったでしょう。
イエスは自分が神のもとへの唯一の道だと主張しています。イエスの言葉に耳を向けるという選択があるし、他人の言葉に頼るという選択もあります。イエスについて意識的に選択することは、9・11テロの不案内な犠牲者たちに直面しているものよりもはるかに重要なことです。永遠が懸かっています。イエスは、私たちが罪から逃れるための完全な許しを用意しています。次の3つの違う返事のうちから、私たちは一つを選べます。
- イエスを無視する
- イエスを拒絶する
- イエスを受け入れる
イエスを無視すること
多くの人が神を無視して人生をおくる理由は、スケジュールを詰め込みすぎて多忙なためです。チャック・コルソンはそんな感じでした。39歳でコルソンは米大統領の隣の執務室を占領しました。彼はニクソン大統領時代のホワイト・ハウスの『タフ・ガイ』であり、厳しい決断をすることのできた『憎まれ役』でした。
しかし、1972年にウォーターゲート事件が彼の評判を台無しにし、彼の人生は引き離されました。後に、彼はこう書いています。
「私は自分自身を懸念していた。あれもこれもやってみたし、達成し成功したのに、功績を神に与えることはせず、神が与えてくれた才能に一度も感謝したことはなかった。私は自分より計り知れないほど優れているものがあると考えたことはない、そうでなければ、ほんの一瞬神の限りない力について考えたとしても、神を自分の人生と結び付けなかった[18]
多くの人はコルソンに共感できます。ペースの速い生活に捕われ、神のために使う時間が少しかない、もしくは全くないようになりがちです。しかし、神の慈悲深い赦しの申し出を無視することは、完全拒否と同じ悲惨な結果につながります。私たちの罪の負債は未払いのままなのです。
イエスを拒絶すること
刑事事件で、全面的な恩赦を辞退する者はほぼ皆無です。ところが、そういうことがありました。1915年にニューヨーク・トリビューンのローカル記事編集者、ジョージ・バーディックは情報源を明らかにすることを拒否し、法律を破っていました。ウッドロー・ウィルソン大統領は、バーディックが【犯した、または犯したかもしれない】犯罪や違法行為の全てに対して、全面的な恩赦を宣言しました。バーディックの事件を歴史上有名にしたのは、彼が恩赦を拒否した事実です。そのために最高裁判所までいくことになり、大統領の恩赦が誰かを強制することはできないといい、裁判官がバーディックの側につきました。
キリストの完全な恩赦を拒絶することに関して言えば、人々はさまざまな理由や言い訳を言います。そのほとんどは十分な証拠がないと言いますが、バートランド・ラッセルや他の数多い懐疑論者たちのように、真剣に調査しようと思うほど、興味は持ちあわせていません。他の人たちは言い訳として、愛情を表さないことや矛盾してる行動を指摘することで、彼らが知ってる一部の偽善者ぶったクリスチャン以外のクリスチャンを見ようとしません。さらには、自分たちが辛い思いをした悲しい経験や悲劇的な経験のことで神を非難したくて、キリストを拒否する人もいます。
しかし、何百もの大学のキャンパスで知識人たちと議論しているザカリアスは、ほとんどの人が神を拒絶する本当の理由は道徳(モラル)だと信じています。彼が書くには、「人が神を拒絶するのは、知的な要求や証拠不足のためではない。人が神を拒絶するのは、神の必要性を認めることを拒否する道徳的な抵抗のためだ[19]
道徳的自由の欲求は私たちみんなが直面する葛藤であり、ザカリアスが指摘したように、それは神を拒否する要因になりえます。大学時代のほとんどの間、C.S.ルイスを神から遠ざけた要因がそれです。真実の追究が彼を神に導いた後で、ルイスは、キリストを受け入れることが、単に頭で事実を納得する以上のことであると説明しています。
堕落した人は改善が必要な、ただの不完全な生き物ではない。つまり、降伏するしかない反逆者だ。武装をすて、降伏し、自分が間違ってたと謝り、自分が間違ってた方向を向いていたことに気づいてもう一度人生をやり直そうとする、それが悔い改めというものだ[20]
悔い改めという言葉は、発想において劇的に好転することを意味します。それが、ニクソン大統領の元『憎まれ役』に起こりました。ウォーターゲート事件が暴露された後に、コルソンは人生を違ったふうに考え始めました。自分の人生に目的が欠落していることに気づいた彼は、友人からもらったC.S.ルイスの本『キリスト教の精髄(Mere Christianity)』を読み始めました。弁護士として訓練を受けたコルソンは黄色い法律用箋を取り出し、ルイスの要旨を書き始めました。コルソンは思い返しました。
自分にその時が来たことがわかった。私は条件なしにイエス・キリストを我が人生の主として受け入れるべきなのか?それは私の前に門があるかのようだった。回り道はなかった。その門を通り抜けるか、外に残るかだった。今となっては『もしかしたら』とか、『もっと時間が必要だ』という言葉は言い訳にもならなかった。
心の中での葛藤の後、この米大統領の元補佐官はイエス・キリストが彼の完全な忠誠に値するとついに気づきました。次のように彼は書いています。
金曜日の早朝に、私の大好きな海をながめて一人で座っている間に、今まで自分が理解できなかった、口から出そうにもなかった言葉が自然と口からこぼれた。「主イエス、私はあなたを信じます。私はあなたを受け入れます。どうぞ私の人生の中に入ってきてください。私はそれを誓います」
コルソンは『私は誰だろう?』で、『なぜ存在しているのだろう?』、『死んだらどこに行くのだろう?』といった彼の疑問の答えが、イエス・キリストとの個人的な関係の中で、全てわかったことに気づきました。その瞬間は、彼が使途パウロが『キリストによって私たちが何者で、何のために生きているのかを見出します』と書いたときに何を意味しようとしたのかを理解した瞬間でした[21]
私たちにとっても同じことが言えます。イエス・キリストとの個人的な関係を結ぶとき、イエスが私たちの内にある空虚感をうめ、平安を与え、私たちが望む目的と希望を満たしてくれます。そして、もはや満足感のために一時的な刺激に頼る必要はありません。イエスが私たちの中に入るとき、彼はまた私たちの心の奥にある切望、持続する真の愛や安心感の必要性を満たしてくれます。
そして、驚かされるのは、神自身が人になり、負債の全てを完済した事実です。したがって、私たちはもはや罪の罰に縛られてはいません。パウロはコロサイ人への手紙で事実を明らかにしています:
あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである
このようにして、神は私たちが自分たちでできなかったことをやってくださいました。イエスの献身的な死によって、私たちは罪から解放されているのです。大量殺人犯が裁判官の前へと進み、完全な恩赦がもらえるようなものです。殺人犯が恩赦を受けるに値しないのと同じように、罪人として私達も恩赦を受けるに値しません。神からの贈り物である【永遠の命】は間違いなく無料で、自分で受け取るべきものです。しかし、たとえ恩赦が私たちに提供されようと、それを受け取るかどうかは私たち次第なのです。
あなたは今、神からの無料の提供を受け入れてもいいという人生の段階にいますか?
おそらくボノ、ルイス、コルソンのように、あなたの人生もまた空虚だったかもしれません。自分が何を試しても、感じている心の内にある空虚感は満たされません。神は一瞬にしてその空虚感を埋め、あなたを変えることができます。意味と目的であふれた人生を過ごすために、神はあなたをつくりました。イエスは言いました。「私の目的は、豊かな満足のいく人生を与えることだ」と。
あるいは、人生において何もかもうまくいっているのに、休まらず、心の安らぎが保てないでいるかもしれません。あなたは神の規律を破り、神の愛と赦しから引き離されていることに気づきます。あなたは神の裁きを恐れています。イエスはこう言いました。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない
だから、あなたがただ単にむなしい追い求めの人生に疲れていようが、あなたの創造主との平和の欠落に悩まされていようが、その答えはイエス・キリストの中にあります。
あなたがイエス・キリストに信頼をおくとき、神はあなたの罪全て-過去に犯した罪、現在犯している罪、未来に犯すであろう罪-を赦し、あなたを神の子とします。そして、神は子に地上の人生における目的と意味を与え、神との永遠の命を約束します。
神の言葉はこう伝えています。「彼(イエス・キリスト)を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである
あなたが望めば、罪の赦し、人生の目的、永遠の命は全てあなたの物になります。あなたは今すぐ、祈りを通して、信仰によってキリストをあなたの人生の中に迎え入れることができます。祈りは、神と話すことです。神はあなたの心の内を知っており、祈りの言葉よりは心の態度を重視します。以下は、祈り方の勧めです。
「神様、私はあなたのことを個人的に知り、あなたとともに永遠に生きたいです。主イエス様、私の罪のために十字架にかかってくださり、ありがとうございます。私は人生の扉を開き、イエス様を私の救い主であり、主として受け入れます。私の人生の主導権を握り、私を変え、私をあなたの御心に叶う者にしてください」
この祈りはあなたの心の願いを表していますか?
あなたがイエス・キリストに誓いを立てるとき、イエスはあなたの中に入り、あなたを導く者、助言者、癒す者、そして親友となります。さらにイエスは、試練や誘惑を乗り越える強さをあなたに与え、意味と目的と力に満ちた新しい人生を体験できるようあなたに自由を与えます。
なんてすばらしい計画を神は設計してくれたのでしょう!この計画は、人間の精神を高め、私たちが人生で直面する出来事に関わらず、心の平穏、意義、希望を備えます。そして、使徒パウロがエペソ人に言うように、それはキリストを主題とした、私たちが含まれた計画なのです。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。(略)天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
(略)
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました
新しい始まり
これは確かに驚くべき知らせです。自分の過去の善悪に関係なく、神はあなたに完全なる恩赦と、彼の息子(=イエス)との新しい始まりを提供しています。キリストの献身的な死のおかげで、神はあなたが犯した過ちに対するわだかまりを持ち越すことなく、あなたを完全に公正な者とみなします。神はあなたを愛しておられ、あなたに高貴なローブを着せ、放蕩息子の寓話の中の父親がわがままな息子にしたように、祝う準備を整えられています。パウロはこのすばらしい新たな始まりについて書いています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた
イエスが私たちを神の子とするために高い代価を支払ったことを一度理解すれば、私たちの人生は二度と同じものにはならないはずです。なりたての信者として、あなたはまだ誘惑を経験したり、疑ったり、失敗したりするときがあるかもしれません。しかしイエスは決してあなたことを諦めたりはしないし、自分の人生に彼に存在してもらうことで、彼の誠実さや彼のために生きる力を体験するでしょう。もしあなたが、イエス・キリストと共にこの新しい人生を始める心の準備ができているなら、次のページの『イエスはあなたのために何をしたか?』で約束と成長の原理を復習することをお勧めします。
イエスはあなたのために何をしたか?
キリストにおける新しい人生
もしイエス・キリストをあなたの個人的な救世主なおかつ主として受け入れることを決意したのであれば、あなたは永遠に神の子です。子として、次に記したすばらしい約束を含む継承が与えられます。
イエスはあなたの人生に入るが、出ることはない
イエスはあなたの全ての罪を赦してくれる
イエスは彼と供にする永遠の命を与えてくれる
イエスはあなたを家族の一員にしてくれる
イエスはあなたの祈りを聞き、それに答えてくれる
イエスはあなたに、彼の言うことを聞く(従う)力を与える
イエスの無条件の愛
イエスはあなたの内に住み、永遠にあなたの友であり主となることを約束していますイエスの愛はあなたの人柄の良さや感じ方に基づいたものではありません。あなたが今経験してるかもしれない感情の高まりは常にあるわけではありませんが、イエスは常にそこに存在します。
青少年活動グループのリーダー、サマンサ・ティドボールは、彼女が10代のとき大勢の男友達と付き合い、デートをして何週間かすると飽きてしまう、というのを繰り返していたといいます。彼女は追いかけることで感情が高まったということに気づきましたが、その高まりは続きませんでした。そして、彼女が初めて神との関係を持ち始めたときもある意味で同じだったといいます。初期の感情のほとばしりが終わると、心の中に空虚感を感じ、どこか別のところに注目を求め続けました。サマンサは神に愛されていることを知っていましたが、神の愛を常に感じていたわけではありませんでした。
彼女はブログでこう書きました。
私は感情は強制できないのだと学んだ。しかし、私は知ってることを反映させ、神が私を本当に愛してくれていると信じることはできる。私はヨハネの第一の手紙4章9~10節でイエスが意味したことを信じなければならない。『神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある』もしイエスがあなたや私のために死んだのなら、私たちの自己価値についてはどう言われているか?イエスはこう言っている。『人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない』(ヨハネの福音書15:13)明らかに、神は私たちのために死を選ぶほど私たちを愛している。これ以上の愛の行為は存在しない。
神は私たちのありのままを愛しています。より良い人生を生きることや、より深い思考をめぐらすことで、神を今以上に私たちを愛させることは決してできません。ティドボールはこういいます。『神の愛を、人々から受ける愛と混同しないこと。人々の愛は行動することで増えたり、過ちで減ったりと変化する。神の愛は状況で変化することはない。神は今いる時点であなたを愛している
あなたの人生を神のためになるものにする
イエスがあなたのためにしてくれたことをよく考えるにつれて、あなたは心から彼を愛するようになりたいと思うでしょう。使徒パウロはそれについて、このように言っています。『なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである
一度、キリストとともに新しい人生の旅を始めると、イエスはあなたを前もって計画していた本来のあなたになるように変化させます。キリストにおける新しい人生は、短距離走よりはマラソンのようなものです。最高の選手は常にトレーニング(訓練)と学ぶこと(学習)に時間を費やします。イエスにおける訓練と学習は5つの基本分野が含まれます。
- 神の言葉(=聖書)を読む時間を過ごすこと
- 祈りの中で神とともに過ごすこと
- 信仰によって神に従うことを学ぶこと
- 他の人たちと神を崇拝すること
- あなたが人を愛するように、神への愛を成長させること